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< 冷戦時代の防衛論議 >
 1989年は東西冷戦が終わった年、ベルリンの壁が崩壊した年です。衆議院に初当選したのが1979年ですから、国会に行って最初の10年間は東西冷戦の真っ只中ということでした。そして残りの10年間、1990年から今年2000年まで、冷戦終結後の安全保障の問題に携わりました。偶然なのかもしれませんが、安全保障をめぐる枠組みが大きく変化した20年間であって、その両方で仕事ができたということは、とてもラッキーだったと思っています。
 前半の10年間、すなわち冷戦の時代、国会ではどういう審議が行われていたか、もう皆さんも十分ご承知だと思いますから多くは申し上げません。要するに、憲法第9条の精神のもとで、「戦力を持たない、戦争をしない」という精神のもとで、どうやってわれわれは国を守っていけるのか。そういう解釈の問題で大変苦労した10年間でした。当時はやはり東西冷戦の影響が強く、社会党や共産党は自衛隊の存在すらも認めていなかったわけであります。そういう中でわれわれ自民党は、自衛隊をもう少しきちんと認めてもらわなければならない。少なくても専守防衛、個別自衛権の行使に関しては憲法上許されるべきだという解釈論争も、国会の審議の中で大いに展開しました。
 例えば空中給油機導入という問題がありました。最近、ようやくわが国でも実現しようとしていますが、あの当時は「空中給油機なんてとんでもない。」という議論が大手を振って歩いていました。例えば「とめ男」、つまり国会の審議をよく止めていた人が何人かいましたが、その中でも社会党の大出俊(おおいで・しゅん)さんなどは、大変なこわもてで凄みのある声で、質問というよりは、ほとんど政府をおどかしていたわけですね。
 かれらの主張はこういうことです。「空中給油機なんかけしからん。自衛隊の戦闘機に空中で給油をすると航続距離が2千キロ、3千キロも飛べる能力を持ってしまう。これは専守防衛や個別自衛権の範囲を越えてしまう。だから空中給油機は憲法違反である。」などと、今から考えると詭弁という感じですが、当時はそういった議論が真剣に、まことしやかにされていたわけです。
 たしかに憲法解釈上厳しかったために、あの当時は断念をしたわけですが、いろいろと聞かせてもらいますと、空中給油機は航空機の燃料を相当節約し、訓練の時間を延ばす効果が極めて高いようです。もちろん、他国を攻めるとか攻めないということは国の意思に関わる問題であって、日本は戦争をしない、他国を侵略しないという強固な意思を、憲法によってきちんと定めているわけです。他国を攻める能力があるから攻めるんじゃないかというのは、順番が逆です。能力はあるが決して他国を攻める意思はまったくないということで、大人の議論を国会でやっていれば、もうちょっと自衛隊のあり方も、また皆さんの訓練のあり方も相当変わっていたんだろうと思います。
 もうひとつ例を挙げてみたいと思います。それも非常につまらない話なんですが、防衛費の総額、上限がしばらく決められておりました。しかも国民総生産(GNP)の1%以内に押さえ込まなければならないという考え方でありました。これもやはり、さっき言ったような「自衛のための必要最小限の武力しか持てませんよ。」という発想から来ています。たまたま鈴木善幸内閣のときに、防衛費が年間4兆円弱で、GNPも380兆円でしたので、ちょうどGNPの1%ぐらいが防衛費でした。これ以上、防衛費を増やしてはいけないという野党の勢力に押されてしまいまして、GNP1%をびた一文越えないという決定を自民党内でもやりました。
 ただ当時は経済成長率が2%とか3%ありましたから、経済成長が続く限りはまあ1%上限でもしょうがないかなと考えていたわけであります。しかし、だんだん不況になってきまして、例えば中曽根内閣の前半ですが、成長率が下がってしまいました。防衛費がはみ出しそうになって大騒ぎになったわけですが、もう後の祭りで、「GNP1%論」が一人歩きしてしまった。今から考えますと不毛な議論をしてしまったんだなぁと感じています。
 これらが前半の東西冷戦の時のエピソードです。憲法第9条とその解釈の部分が、我々が安全保障を考えるときの大きなネックでしたが、実は後半の10年間においても、非常に大きな影響を与えておりました。

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