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< 冷戦後の防衛論議 >
 今度は冷戦後の10年間を、振り返ってみます。1991年にイラクのクェート侵攻がありました。平成3年でした。そのとき私はちょうど、自民党の外交部会長をやっていました。国防部会長は柿沢弘治先生でした。湾岸戦争が突然始まったものですから、大急ぎで関連する11の部会を一斉に集めまして、私と柿沢先生とで司会をしました。湾岸戦争に対してわが国としていったい何ができるのか、どういう国際貢献ができるのかという議論を真剣にやりました。
 その議論の中でも影を落としていたのは、やはり憲法第9条の制約です。いろんな形で世界に援助している日本が、何かしなければならないとしてまず決定したのが、90億ドル(約1兆円)の財政支援でした。しかし人的な貢献もしなくては国際的非難を受けると考えました。そこで、要人等の輸送に自衛隊の航空機を使うことができるという規定を、自衛隊法の中に見つけました。「要人等」の「等」というところに、戦災の避難民を加えるという拡大解釈をして、法制局のお墨付きをもらいました。しかし派遣先がクェートやサウジアラビアは戦場が近すぎるので、例えばエジプトのカイロに自衛隊の輸送機を派遣しておいて、避難民がそこまで逃げてきたときには、安全な場所まで輸送しましょう、というミッションを考えたのであります。
  しかしその後、少しもたもたしました。このような輸送機に警務官を乗せますが、小銃を携行してもいいのかどうかで大議論がありました。「正当防衛」や「緊急避難」という考え方が警職法にありますが、そういう考え方を延長していけば警務官に小銃を持たせて、海外に出すことも可能ではないかと思いました。しかし当時の社民党はやはり、「海外で日本人が拳銃を使うのは、憲法上まずいんじゃないか。」と言い出して、輸送機を派遣するのに時間がかかってしまいました。ようやく出せるとなったとたんに、皮肉にも湾岸戦争は終わってしまいました。極めて残念でした。
 次に私たちが考えたことは、海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に3隻派遣して、イラクが敷設した機雷を除去するための国際協力に参加しようということでした。既に戦争も終結し、戦争に巻き込まれる恐れも全くありませんでした。一方、日本の掃海技術は、戦前から相当行水準であることが世界の中でも認められております。是非この力を、日本の国際貢献の大きな柱として、是非汗を流そうではないかと言うことで、ようやく実現しました。
 ところがクェート政府が、ニューヨーク・タイムズかワシントン・ポストに感謝広告を出しました。32カ国が貢献したということで、アメリカ、イギリス、フランスはじめ、その国旗と国の名前がずらっと並べられました。しかしどこを探しても、日の丸もありませんし「JAPAN」の文字もありませんでした。私たちは本当にショックでした。あの時90億ドル、一兆円というお金を、タバコも増税、石油も増税して苦労して工面しておきながら、或いは掃海艇まで出しておきながら、なんで日本が感謝されないんだろうか。そのとき大変憤慨したわけであります。しかし名前の挙がった32の国々は、アメリカはもちろんのこと、あの時の多国籍軍に対して、何んらかの人的な貢献をした国々ばかりでした。決してクェートが忘れていたわけではありません。国際社会で感謝されるには、困った時にきちんと人を派遣することだと、つくづく思いました。
 その後、我々自民党の中ではいろんな議論がありました。認められる国際貢献をするには、人を派遣すべきである。特に自衛隊の皆さんに国際的に活動していただける、きちんとした枠組みを作るべきではないかという議論になりました。その一つはPKOの参加問題です。海部総理の時に、一度「国際平和協力法案」という法律を国会に出したんですが、残念ながら成立しませんでした。その次に、PKO協力法案というのを、我々は出しました。これは、ようやく国会で通りました。
 その最初の仕事は、UNTAC、すなわちカンボジアにおける停戦監視でした。この仕事には多くの自衛隊の皆さんが参加していただいて、大変すばらしい成果をあげました。一方で国連ボランティアの中田さんや、文民警察として参加した高田警視が犠牲になったことは極めて残念でした。しかし停戦監視そのものは順調で、内戦後の復興として道路や橋などのインフラを作る作業に、陸上自衛隊の皆様に参加をしていただいたのです。これは非常にいい経験だったと思います。
  その後ゴラン高原への輸送部隊派遣などのPKOにも、日本は積極的に参加するようになりました。しかし、このPKOにも、やっぱり一つの限界があります。平和を作り出すためのPKFについては、まだ参加が認められていないからです。PKF凍結から大分時間が経っていますが、参加できるという体制を作っておくことは、通常のPKOの作業をやる上でも対応しやすいと私は思っております。これは緊急の課題として、解決をしなくてはいけないと思っています。

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