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< 私と自衛隊のかかわり >
 さて、話を本題に戻しまして、私と自衛隊との関わりというところから話を始めたいと思います。
 私は昭和28年11月生まれですから現在46歳、当然、戦前の記憶は全くありません。戦後の混乱の時期もほとんど経験をしておりませんので、まさに戦後の復興と高度成長の時代に青春を送ってきた人間であります。とりわけ高校、大学時代に於いては、学生運動が非常に盛んな時期でありました。防衛問題や自衛隊について前向きの議論をしようものなら、すぐさま罵声を浴びせ掛けられる状況でした。
 一方私の自衛隊との関わりは、大変古いのです。昭和30年、私がまだ2歳の頃ですが、私の祖父・船田中が、鳩山内閣で第4代目の防衛庁長官を拝命しました。それ以後祖父はしばしばこの駐屯地を訪れまして、多くの先輩の皆さんとも交流をさせていただきました。自衛隊の記念日には、必ず出席して祝辞を述べましたが、いつも孫の私を連れておりました。子供の私には、この場所がどういう所か、最初はよくわからなかったようです。でも、ジープや飛行機がいっぱいあって、何とはなしに「格好いいところだなぁ」と思っておりました。
  この駐屯地のことを、当時私は「わが国」って言っていたんですね。「また『わが国』に行きたいよ。」と言っていたんです。何で「わが国」なのかなぁと不思議に思っていましたが、後で母親に聞いたら、自衛隊の記念日の祝辞が「わが国の防衛は…」とか、大体「わが国」から挨拶が始まるものですから、ここを「わが国」と思い込んでいた。そんなエピソードもありました。そんな幼児体験が、後の政治家の関心事項として影響を与えたわけですから、子供の体験というのは非常に大事なんですね。
 もう一つ。祖父は、アメリカ海軍との交流をずっと続けていたのです。毎年一回東京に於いて、「船田パーティー」というのを主催していました。在日米海軍、第七艦隊、太平洋艦隊の皆様をお招きして、歌舞伎の観劇をしていただく。そして、その後パーティーを行いました。祖父は、米海軍の皆様への率直な感謝の気持ちを、パーティーで表現しようとしたわけです。祖父が亡くなった後も、私が10年近くを代行させてもらいました。祖父の気持ちや心意気は、大変貴重だったと思っています。私にとってもよい勉強と人脈づくりになりました。
 そのような自衛隊との関わり、あるいは安全保障との関わりがありましたので、国会に入ってからも自民党の国防部会、安全保障調査会、また安全保障特別委員会に長年所属して、わが国の防衛問題を色々と勉強し、議論させていただきました。そこで、これまでの私の国会の中で、この分野に関する活動経験を一、二述べてみたいと思います。

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