昭和20年6月23日、激烈を極めた沖縄の地上戦が事実上終結した。あれからちょうど80年経ったが、その傷跡と哀しみは絶えず、平和の礎のある摩文仁の丘をはじめとする沖縄各地、そして本土でも、追悼式や色々な催しが行われた。
摩文仁の丘への登り口付近では、当時沖縄県知事だった島田叡(あきら)をはじめとする、沖縄県職員の犠牲者を追悼する碑に花を捧げる県関係者や、ご遺族の姿もあった。さらにその後方の一段高いところには、島田知事と、最後まで生死を共にした荒井退蔵警察部長(当時)の、終焉の地を記した碑も建っている。
島田知事は神戸市の出身で、旧内務省からの最後の官選知事、荒井警察部長(現在の県警本部長)は、栃木県清原村上籠谷の出身で、旧制宇都宮中学から明治大学卒で、内務省に入った郷土の大先輩である。
2人は戦況厳しくなってきた沖縄の島民を、県外に疎開させる作業を必死で行い、約20万人を疎開させたという。残った島民を地上戦の激しい場所から、南部のやや安全な場所に移すなどして、島民の多くの命を救ったと言われる。しかし最期は摩文仁の丘に追い詰められ、2人とも当地で自害したとされる。
戦後になり島田知事の功績はかなり明らかになっていたが、荒井退蔵の功績はほとんど人口に膾炙されなかった。しかしこの10年の間に、宇都宮の郷土史家が丹念に文献に当たり、ようやく日の目を見ることとなった。コロナの時期を挟んで、この2人の奮闘ぶりを描いた映画『島守の塔』が上映され、その功績を顕彰する沖縄と本土の交流会も開かれた。
残念だったのは島田知事や県庁職員の追悼の碑には、以前から兵庫県関係者が献花をしてきたが、栃木県関係者の姿はなかったという。このことを憂いた沖縄県産業振興公社に勤める栃木県出身者が私に働きかけ、栃木県関係者の献花をお願いして、ようやく実現したことがあった。
戦争を起こすからには、双方にそれなりの理由はある。しかしそれが国同士では通用しても、国民にとっては取り返しのつかない犠牲をもたらす。太平洋戦争の唯一の地上戦だった沖縄の戦いは、島民の4人に1人が犠牲となる苛酷なものだった。この修羅場で地元出身でない2人が決死の覚悟で働いた事実を、私たちはもっとしっかりと見つめなければならない。