昭和16年(1941)12月8日未明、現地は7日の朝になるが、日本海軍機動部隊がホノルルの真珠湾を奇襲してから、今年で80年を迎えた。これを記念してNHKをはじめ、テレビ各社は特別の番組を幾つか流していた。ただ遅い時間帯のオンエアが多いため、折角の力作も人々の目に触れることが少なくて残念だ。
日本の中国進出や南部仏印への侵攻に懸念を持つ欧米諸国、とりわけアメリカ政府は日本の野望を挫こうと、石油の全面停止すなわちABCD包囲網を築こうとしていた。当時、石油の9割をアメリカに依存していた日本は窮地に立たされた。軍部の危機感はとりわけ大きかった。
開戦前の政府には、日米の軍事力や経済力の比較をする、いくつかの研究・検討機関が設けられた。それらは、軍事面での差は1対2程度だが、経済力では1対10あるいは1対20もの差があると指摘した。そこから軍部、特に陸軍は初戦に勝利して短時日に集結するのであれば、勝機は決してゼロではないという結論を導き出し、無謀な大戦に突入してしまった。
開戦前の日本では、何回か戦争回避のチャンスはあった。先程の日米比較の報告を政府全体で共有し、冷静に吟味すれば、結論は自ずから回避すべきだったはずた。ところが軍幹部には少しでも勝機あれば後は何とかなるという、「根拠なき楽観主義」が蔓延していた。
また大戦の前には何回か御前会議が開かれたが、戦争回避を必死に訴える東郷外務大臣らに対して、陸軍海軍の両大臣などは、主戦論を執拗に展開した。昭和天皇も当初は開戦に慎重姿勢を堅持されていたが、軍部のこのような勢いに抗することができず、とうとう12月1日の最後の御前会議では「開戦は不得巳(やむを得ない)」との御聖断が下った。もう少し東郷などが抵抗し昭和天皇も慎重だったらと悔やまれるが、今となっては如何ともし難い。
さらに開戦のきっかけとなった米国務長官の対日要求文書、いわゆる「ハルノート」には日本の中国からの完全撤退という厳しい要求が含まれており、これが日本には「最後通牒」と受け止められた。アメリカのこの態度には2説あって、一つは強硬手段に出ても日本が戦争に訴えることはなかろうという楽観論のなせる技。もう一つは既に口火が切られているヨーロッパ戦線に、アメリカを引き出すきっかけにしようという、深謀遠慮の仕業という。しかし後者は眉唾に近い。
これら日米開戦に至る一連の動きについては、まだまだ検証が足りないのだが、たしかに言えることは、開戦回避のチャンスが何回かありながら、「根拠なき楽観主義」やマスメディアの巧妙で執拗な世論操作、さらには相手国の意思の見誤りなどによって、開戦不可避な状況に追い込まれたということだ。
怖いのはこうしたボタンの掛け違いや、楽観主義などによって、甚大な犠牲が生じてしまったという事実を認識し、反省することを忘れること。そして二度とこのようなことを起こさない決意や仕組みづくりを怠ることである。そうしなければ将来、必ず再び国家的悲劇が生まれるだろう。