平成23年3月11日午後2時46分に発生した大震災から、ちょうど10年が経った。1年前の数字だが、死者1万5899名、行方不明者2529名、関連死3739名、そして今も避難生活を続けている方は4万7737名である。あらためて亡くなられた方々の御霊の安らかなことを祈り、避難生活を続けている方々に心からお見舞いを申し上げたい。
当日私は宇都宮での仕事を終えて、東京に行こうと新幹線に乗り込んだのだが、その途端大揺れに見舞われた。もし発車していればしばらく車内に閉じ込められていたかもしれない。学校が心配なのでタクシーで戻る途中、停電で信号機が消えて渋滞が始まり、ビルから多くの人が外に出て、不安そうに周囲を眺めていたのを鮮明に覚えている。
ようやく学校に戻ったところ、生徒全員が校庭に出ていて、恐怖で泣いている生徒もいた。私からはハンドマイクで落ち着くように呼びかけ、1クラスづつ校舎に入れて荷物を取り出し、下校させた。ところが問題は電車通学の生徒たちであり、鉄道は全て不通となり、300人近くが帰宅できず校内に留まっていた。学校のスクールバス1台、外部委託のスクールバス3台が幸い動かせたので、これで県北部の福島県境、県南部の埼玉県境まで臨時運行して生徒を送った。4台が帰校したのは午前2時を越えていた。
発災当初は津波被害の全容が分からなかったが、次第に空前の被害であったことが明らかになった。テレビ画面に映された画像が現実のものとは、俄かに信じられなかった。直ちに学校で救援物資を集め、現地選出の亀岡偉民議員の導きにより、マイクロバスで南相馬市や新地町などに届けた。その後気仙沼市では被災した学校やお寺などに直接義捐金を届けた。しかしこのような取り組みは一時的であってはいけないとして、長続きする支援活動を考え、毎年学校の創立記念日に合わせて街頭募金を計画し、児童生徒たちが今も続けている。
一方中等部では震災学習を3年間にわたって行うこととした。1年生では会津での宿泊学習の際に震災語り部のお話を聞き、2年生で実際に被災地(石巻、気仙沼など)を訪問し、3年生の修学旅行中には神戸の防災センターで、阪神大震災から立ち直った神戸の姿を確認する。この経験を通じて、彼らは災害の悲惨さを決して忘れないし、どうすれば災害から人々を守れるかを常に考えていくだろう。なお原発事故で対応に当たる作業員の方々に対して、中等部生が自ら考えて、激励文を書いたタオルを400本送ったが、「東電は悪だ」といった空気が支配的で、取材をお願いしたマスコミはほとんど来てくれなかった。子どもたちは何が大切かを、きちんと見ているんだなと感心しきりだった。
発災後私は一議員として、政府の復興政策の加速化を促して来た。堤防や高台移転などに多くの予算を注ぎ込んだが、人手不足のため整備には遅れが目立った。また人口減少がはじまっていた地域だったにもかかわらず、原状復帰の固定観念のため、将来の減少を織り込んだコンパクトな街づくりが出来なかったことは反省材料だ。さらに原発事故による帰宅困難地域や制限地域の設定では、放射能濃度により機械的に決めざるを得なかった。もう少し被災地の人々の故郷を思う気持ちに添えなかったのか、忸怩たる思いがある。
10年前の大震災は我々に、危機管理の必要性を認識させた。そうした中アメリカのFEMAなどのように、災害発生時に省庁横断で現場主義的でワークする組織が必要であるとの提言が出たり、憲法改正の重要なテーマとして、緊急事態条項が取り上げられた。瓦礫の積み重なった場所を啓開する(通り道を作る)際に、今の法律ではいちいち所有者の承諾を得る必要があり、大変な時間がかかってしまう。もちろん私権制限は抑制的であるべきだが、必要最低限の制限はきちんと法に則って行えるようにすべきとの議論も盛んに行われた。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の諺の如く、危機管理の議論が低調になっていることは誠に残念である。
まだまだ被災地に対してやるべきことは数多いし、被災地のことを決して忘れてはならない。そして東日本大震災の教訓は、これから起こりうる首都直下型地震や東南海地震への備えに生かしていかなければならない。我々はよく「震災後」という言葉を使うが、これからは「震災間」であるという認識で災害に取り組んでいくべきではないだろうか。