古代オリンピックは都市国家間の戦争を一旦休戦して、ギリシア全土から選手が集まり、万能の神ゼウスに捧げる一大イベントだったという。きっかけは当時流行っていた疫病を鎮めるために、神に伺いを立てたところ、「皆で競技をせよ」とのお告げがあったためとも言われる。新型コロナウイルスがオリンピック開催を脅かす現在とは、皮肉にも真逆な状況ではなかろうか。
時はくだり、古代をモデルにした近代オリンピックは、19世紀末フランスのクーベルタン男爵によって提唱され、1896年アテネにおいて第一回が開催されたことはよく知られている。過去に2度の大戦により中止に追い込まれた歴史からも、オリンピックは平和だからこそ開かれる祭典であり、世界の人々の大いなる夢でもある。今回は戦争でなく、コロナ禍が世界中で猛威を振るっており、この夏までにその開催条件が整わない怖れが、日に日に強まってきている。
先日の政府の専門家会議では、日本は感染が一定程度に抑えられているとの見立てだが、未だ収束の見通しは立っていない。一方アメリカやヨーロッパのいくつかの国は、「パンデミック」とも言われる爆発的な感染がはじまっており、このような状況のもと、競技団体や選手から延期を求める声が出始めている。イギリス陸上競技連盟やアメリカ水泳連盟、そしてノルウェーやブラジルのオリンピック委員会などである。アメリカの有力紙ワシントンポストやニューヨークタイムズでも延期や中止の声があがった。
ところが日本政府や東京都は、未だに予定通りの開催を主張し続けている。オリンピック開催の決定権はIOCにあることは事実だが、かと言って開催国の我が国が延期や変更について、何の意思表示もしないというのは責任ある態度とは言えまい。もちろんこの夏に照準を当ててコンディション作りを行ってきた来た選手たちにとっては、予定通りにやってほしいとの願いは当然だ。しかし現実にコロナ禍のため、出場選手を決める予選が出来ない種目が多数あり、また練習もままならない選手もいて、条件にばらつきが増しつつあることも事実である。
我々はこのような選手たちの切実な声に耳を傾けるべきである。オリンピックとパラリンピックが全ての選手に公平かつ平等に用意されるためには、この夏の開催では極めて困難であり、この条件を満たすには丸一年あるいは丸二年延ばさざるを得ないと考える。日頃から「アスリート・ファースト」「最高のコンディションで最高のパフォーマンスを」と唱えているオリンピック関係者は、勇気を持ってIOCに延期を求めるべきである。