はじめ新報
首班指名選挙の怖さ

 10月4日に自民党総裁選挙の結果、高市早苗総裁が選出されたが、今週21日の臨時国会冒頭における首班指名選挙において、ようやく総理大臣の座に就ける見通しが立ってきた。この間公明党が連立離脱するなどの問題が発生して、17日という時間を要した。

 最近の首班指名選挙はスムーズに行われるケースが多かったが、私は過去3回、厳しい環境のもとで首班指名を経験したことがある。

 最初は、私が初当選した1979年(昭和54年)の総選挙後の首班指名である。自民党内の対立が原因だが、「一般消費税」を掲げて衆議院選挙敗退という結果を招いた大平正芳総理に対して、その責任を問えと迫った福田赳夫元総理側が厳しく対立し、選挙後40日間も国会が開かれなかったのである。いわゆる「40日抗争」であり、党内派閥の激しい争いの洗礼を、初当選にして経験することとなった。

 2回目は政治改革を巡って、自民党の羽田・小沢グループが集団で離党し、総選挙の結果、我々新生党はじめ、社会党・公明党・日本新党新党さきがけ・民社党・社民党・民改連の8党による、非自民、非共産の勢力が政権を奪取した時である。

 首班指名選挙そのものは比較的スムーズだったが、下馬評ではこのムーブメントの中心にいた、新生党の羽田孜氏が選ばれる予定だった。しかし小沢一郎氏は日本新党の細川護熙氏を指名するという、荒技を演じた。当時小沢氏の側近とも言われていた私は、小沢氏のちょっとした動きを察知して、テレビカメラの前で「羽田総理でないかも知れない」と発言し、大騒ぎになったことを覚えている。

 そして3回目は少数与党を基盤とした羽田内閣が短命に終わり、非自民勢力が担いだ故海部俊樹元総理と、自民・社会・さきがけが担いだ故村山富市氏の一騎打ちの首班指名選挙である。この時は選挙に至るまで票読みができず、一か八かの息を飲む闘いだった。結果は自社さ政権、村山新総理の誕生で幕が降りた。

 こうした経験をしてきた私だが、今回の首班指名までの混乱は、これらに匹敵するものではなかろうか。しかしいずれの場合でも永田町の数合わせという要素が強く、国民不在であったことは否めない。1日も早い事態の収拾と、国民生活のための政策遂行に取り掛からなければならない。