はじめのマイオピニオン - my opinion -
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田中正造没後110年

 日本の公害の原点とも言われる足尾鉱毒事件、その過酷な現実を世に知らしめた田中正造翁は、1913年9月に71歳で逝去した。今年で没後110年に当たる。加えてその足尾銅山が閉山してから、今年で半世紀を迎えた。正造翁は身命を賭して国や県に善処方を働きかけたばかりか、明治天皇に直訴しようとするなど、被害者救済に奔走する日々を送り、結果、官憲から睨まれる存在でもあった。

 そうした中、県庁にほど近い二里山(今の県立図書館周辺)に、作新学院の前身の下野中学校の創立者船田兵吾の自宅があった。正造翁はここをしばしば訪れ、疲れを癒したという。常時尾行している警察も、ここにいれば安心だとして、監視の目を緩めていたようだ。しかしこのことが遠因となり戦前の10数年間、下野中学校は県の管理下に置かれるという、辛い歴史を経験することとなった。

 先日の下野新聞一面に、都道府県が条例に基づき文化財に指定した美術工芸品1万1千件あまりのうち、31都県で151件の紛失や行方不明となり、栃木県は43件で全国最多であるとの記事が掲載された。一例として正造翁が船田兵吾らにしたためたという短歌が取り上げられた。調べたところ、現物は我が家や作新学院には渡っていなかったため、直接の管理責任は問われないが、この事態を寂しく思うが、この一件で図らずも正造翁と兵吾らの関係性が詳らかになった。

 一方、田中正造を研究・検証する組織が、昨年相次いで幕を下ろした。館林市にあった「渡瀬川研究会」は50年の歴史を刻んだ。佐野市にあった「田中正造大学」は36年で幕を下ろした。いずれも資金不足やメンバーの高齢化が理由という。今後、我が国の公害の原点で活動した田中正造に関する研究や、その功績を顕彰する機会が減ってしまうのではと危惧している。かつて交流のあった下野中学校の後継である作新学院の中に、何らかの研究組織が立ち上げられないかと思案する昨今である。

[ 2023.11.13 ]