1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博は日本の戦後復興のシンボルでもあり、高度経済成長の先駆けともなった大イベントだった。それぞれ小学校5年生、そして高校2年生で迎えた私は、当時の多くの国民の意識と同様に、漸く世界から認められる国になったとの高揚感に浸っていた。
ところが2021年の2度目の東京オリンピックでは高揚感を感じられず、度重なる準備段階での躓き、開会式のチープさ、さらにはみなし公務員の汚職や関係企業の談合など、むしろ失望感が先行してしまった。そして2025年開催予定の大阪・関西万博では、オープンを1年半後に控えた今に至っても、各国のパビリオンは一つも建っていないという事態。
パビリオンには、参加各国が独特のデザインで造るAタイプ、主催国が建物を用意して内装だけ参加国がデザインする、BないしCタイプがあるようだが、資材や建設費の高騰や、働き方改革に伴う人手不足などにより、Aタイプで開催することはほぼ不可能とも言われている。各国が意匠を凝らした、パビリオンで競い合うことこそ万博の魅力であるのに、今から興醒めしてしまう。
興醒めといえば、万博の公式キャラクター「ミャクミャク」もそうだ。真っ赤なマフラー状のものに目が一杯付いていて、どう見ても妖怪にしか見えない。普通の美的感覚を持っていれば、この気持ち、分かってくれるのではないか。今回の万博の不手際を、このキャラクターが象徴しているとしか思えないのである。
とは言っても前回同様、この万博は国際博覧会条約に基づき、日本政府が博覧会協会と交わした国際的約束のもとで開催され、また開催準備をするための特別措置法まで用意して、着々と準備を進めてきたはずである。準備の遅れはコロナ禍のせいだけではない。過去の国家プロジェクトを成功に導いてきた、日本国民の勤勉さと組織力が低下していると言っても、決して言い過ぎではないだろう。
万博開催という国際公約を果たすため、政府は所管の経産省事務次官経験者をプロモーターに配置したり、万博貿易保険を新設して、建設業者の不安を払拭するなど、漸く危機感をあらわにして本気で動き出したところである。しかしもし時間切れにより、中途半端な万博しか出来ないことが判明したら、勇気ある撤退という選択肢も残しておくべきではないか。「国際公約も果たせない日本」というレッテルを貼られることは忍びないが、それ以上に無様な格好を世界に曝け出すよりはマシではないだろうか。
最後にもう一つ付け加えるとしたら、万博後の夢洲をIR、すなわちカジノにすることが、本当の目的ではないかと疑われても仕方がないのである。この手法は、私たちが反対している、神宮外苑の再開発事業の導入と酷似している、との指摘もある。東京オリンピックのメインである国立競技場建て替えの際、高さ制限を緩和し、風致地区を外したことが、今回の再開発につながったからである。
日本が世界の中で輝いていたあの時を取り戻すためには、我々はもっと素直に原点に立ち戻り、国家的プロジェクトに望む姿勢や覚悟を再確認し、官民が適切に役割分担と連携協力体制を作り上げなければならない。