はじめのマイオピニオン - my opinion -
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足尾銅山の閉山から50年

 わが国屈指の銅山だった足尾銅山が1973年(昭和48年)に閉山してから、今年でちょうど50年目を迎えた。地元の下野新聞も何回かにわたり特集記事を掲載していたが、さまざまな苦しい歴史が綴られていた。特に明治から大正時代に起こった悲劇は「足尾鉱毒事件」として知られている。

 硫化水素を含んだ排煙が一帯の緑を枯らし、現在でもその爪痕は残る。鉛、ヒ素、硫化鉄、カドミウムなどの重金属を含んだ排水が、渡良瀬川に垂れ流しとなり、下流域を幅広く汚染してした。多くの住民が体調の不良を訴え、その惨状を田中正造が天皇に直訴する事件も起きた。

 足尾鉱毒事件は、我が国の公害の原点とも言われる。とりわけ現在の渡良瀬遊水池の近くにあった旧谷中村は、政府の命令により、村ごと北海道サロマ湖のほとりに集団移転させられた。私の高校先輩の作家・立松和平さんがサポートした「足尾に緑を育てる会」が、何度も植林を繰り返し、少しづつ緑が増えてきたが、まだまだ禿山はあちこちに残る。

 この公害を世に広く訴えた田中正造は、当時常に官憲の尾行に悩まされていた。そうした中、数少ない休息場所だったのが、私の曽祖父・船田兵吾の自宅だった。県庁からもほど近く、下野中学校を経営していた兵吾の家なら心配ないと、官憲も大目に見ていたようだ。しかしその後、学校自体に目をつけられ、15年ほど県の管理下に置かれてしまった。足尾とは浅からぬ因縁である。

 足尾銅山にまつわる歴史は、多くの書物や記録に残っているが、検証作業が十分でないことがある。強制徴用された韓国人や中国人の実態である。特に韓国人約2400名が鉱夫などの過酷な役務に従事し、命を失った例も少なくないという。既に中国人犠牲者の慰霊碑は現地に建立されたというが、韓国人のそれはまだ実現していない。銅山閉山から50年、遅きに失したが、今からでも建立することに意義があるのではないか。

[ 2023.07.10 ]