平成元年から2年3ヶ月にわたり総理大臣を歴任された海部俊樹先生が、91歳の天寿を全うされた。文教族の大先輩として、三塚博先生、西岡武夫先生、森喜朗先生らとともに、終始熱心なご指導を賜った。思い出は止めどなく蘇ってくる。
海部先生は自民党青年局長時代、JICA青年海外協力隊の創設に深く関与された。アメリカの若者が海外でボランティア活動を展開するというPeace Corps(平和部隊)をお手本にした組織だが、海部先生は強国の威信や軍事を背景とするのではなく、草の根の活動を大事にされた。協力隊を支援する小委員長を長く続けられたが、総理になる時に私を後継指名してくれた。海部先生のご遺志をしっかり受け継がなければならないと思う。
総理就任から半年後、イラクが突如クウェートに侵攻して湾岸戦争が勃発した。当時私は自民党外交部会長だったので、日本の貢献策に奔走した。憲法上の制約から自衛隊の派遣は難しく、人的貢献も大変苦労した。戦闘は1週間で止まったが、その後日米首脳会談が急遽アメリカ西海岸(パームスプリングス)で開かれることになり、私と国防部会長だった柿澤弘治先生が随行した。0泊3日(機中2泊)という強行軍だった。
当時のブッシュ(父)大統領との会談の中で、90億ドル(のちに130億ドルになる)の資金支援要請があり、たばこ税などの増税で賄うこととなった。海部総理はその後も憲法の枠内で何とか人的貢献をしたいとして、海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾派遣に漕ぎ着けた。国内では賛否両論があったが、40発近い機雷の処理に成功し、国際的評価は高かった。自衛隊の初めての海外派遣に、海部総理は政治生命をかけていた。その気迫を私は近くで感じていた。のちのPKO法に繋がった。
海部総理は政治改革にも熱心に取り組まれたが、自民党内では小選挙区制度に導入に反対する勢力が強く、強行解散で事態打開を図ったが、解散もできずに退陣に追い込まれた。後継の宮沢内閣でも実現せずに、非自民の細川内閣でようやく実現したが、その端緒を作ったのは海部総理だと今でも思っている。
海部先生とは自民党以外のところでもご指導いただいた。政治改革の流れの中で、私は新生党に所属し、羽田内閣が退陣した後の非自民勢力でもう一度首班を狙ったが、その時に担がれたのが海部先生だった。自・社・さ3党が押した社会党の村山富一先生に僅かな差で敗退した後は、新進党党首になり、しばらく自民党の外で奮闘された。2003年に自民党に復帰されたが、もう少し早く戻っておられたら、もう一花咲かせたのではないかと惜しまれる。
海部先生のお人柄は誰もが認める如く、決して驕らず誰にでも平かに接する方だった。政治家臭くなく、いつまでも素人肌であったことが、かえって国民的人気の元だったのではないだろうか。今でも「よう!」と片手を挙げて挨拶される海部先生が、ひょっこり現れる気がしてならない。
あらためて海部俊樹先生の長逝を悼み、衷心より哀悼の誠を捧げたい。