2020年11月に投票が実施されたアメリカ大統領選挙は、現職共和党トランプ氏に対する民主党バイデン氏の間で大接戦が展開され、極わずかな差でバイデン氏が勝利した。しかし州によっては数え直しの訴訟やバイデン勝利を認めないトランプ支持者のアピール、選挙不正の訴えなどが数多く提起されていた。
最終的には連邦議会で当選者を確定するが、その会議が開かれていた2021年1月6日(米東部時間)、トランプ大統領が支持者を前にして「議事堂に向かおう」と煽動。これに呼応した支持者に暴力的集団も混ざって、一部が暴徒化して議事堂に乱入。大混乱の中で4人が死亡し、700人近くが検挙される異常事態に発展した。
その一部始終をメディアで目撃した我々は、これが民主主義国家の盟主たるアメリカで起こったのか、にわかには信じられなかった。2000年のブッシュ対ゴアの大統領選挙の結果も僅差で、ブッシュ勝利の確定まで1ヶ月以上かかった。したがって今回も多少の混乱はありうるかと思っていたが、ここまで酷い状態になるとは予想外だった。民主主義とはいかに脆いものかをあらためて感じるとともに、手続きを大切にしないと民主主義は成り立たないことを痛感した。トランプ前大統領は1年経った6日にも、選挙の公正さを認めない趣旨の演説を行い、分断がなお続いていることを思い知った。
翻って日本の民主主義はどうか?決してアメリカを批判する資格はなく、危うい状態にあると私は認識している。我が国では選挙の結果そのものを信じない輩は流石にいないものの、多額の金銭買収により選挙結果が歪められようとし、また歪められたことが最近発生した。
公文書は政策決定過程をつぶさに記録したものであり、その政策が正しかったのかどうかの評価の元となり、誰が決めたのか責任を国民がチェックすることができる。その意味で公文書は民主主義の根幹をなす財産とも言える。したがってその改竄や隠蔽という行為は、民主主義を崩すに等しい。霞ヶ関の一部においてそのような行為が行われたことは大変遺憾であり、真相を明らかにする責任は依然として存在する。
我々はよく欧米各国との間で「法の支配、民主主義、人権など価値観を共有する」と外交上の常套句として使っているが、共有している民主主義の中身が本当に確かなものかどうか、あらためて検証する必要がある。アメリカの議事堂乱入事件を見て、一層その必要性を痛感している。