いよいよ韓国平昌での冬季オリンピック、パラリンピックがスタートした。マイナス10数度という極寒の中、熱い闘いが展開されるが、日本選手団には小平奈緒、平野歩夢、渡部暁斗、高梨沙羅(敬称略)など金メダルを狙える位置にいる選手が多数おり、とても楽しみだ。男子フィギュアでは宇野昌磨の活躍の一方、羽生結弦の怪我がどの程度回復しているか、とても心配なところだ。
しかしさらに心配なのは、平昌五輪にかこつけて、北朝鮮が韓国や国際社会に揺さぶりをかけ、核ミサイル放棄を要求する国際社会の圧力に、風穴を開けはしないかということだ。北の「微笑み外交」に文在寅政権が擦り寄っていかないように、安倍総理もペンスアメリカ副大統領も直談判したところである。
オリンピックもパラリンピックも、従来から「平和の祭典」と称されて来た。ギリシャ時代にアテネで古代オリンピックが開かれている間は、都市国家同士の戦争を中断していたという。今も昔も変わらない光景なのだろうか。しかし近代オリンピックがスタートしてから今日まで、オリンピックそのものが政争に巻き込まれ、政争の具として利用された例は、残念ながら少なからずある。
太平洋戦争間近かの昭和15年に予定されていた東京五輪が、支那事変のため幻に終わった。1972年のミュンヘン五輪ではイスラエル選手団がパレスチナ武装集団「黒い九月」に襲撃され11名の犠牲者が出るという痛ましい事件が起こった。1980年のモスクワ五輪では、前年にアフガニスタンに侵攻したソ連に抗議して、西側諸国がボイコット。次のロサンゼルス五輪では意趣返しをされて東側諸国がボイコットした。
しかし一方ではオリンピックを契機として平和を創出しようという動きもあった。リオ五輪では難民のアスリートがはじめてチームを組み参加することができた。オリンピックの前後には国連において、国際平和に関する決議を採択したり、紛争地域での和平を強く促したりする動きも顕在化した。
私たちはアスリートたちの華麗な演技や、魂の競い合いに拍手を送ると同時に、オリンピックに政治を持ち込まないという国際的なルールを守る努力をすること、オリンピックが持っている平和創出の力を信じて、それにも声援を送る必要があるのではないだろうか。