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第一部 政治を変える

第一章 国民を主人公とする政治国民を主人公とする政治へ


どうすれば、この危機的状況を切り抜け、政治を再生できるだろうか。

 私は、東西冷戦後の新しい時代にふさわしい新しい政治の対立軸を打ち出す必要があると思う。イデオロギー対立がなくなった現在は対立軸は立てられない、せいぜい、各案件ごとに争点を明確にするぐらいだ、という意見がある。私は、それでは国民の関心を政治に引き戻すことは不可能だと思う。
 新進党は結党以来、「たゆまざる改革」を旗印にしてきた。しかしこれでは、二つの点で限界がある。まず、争点ごとに改革を提示しても、その積み重ねがどこを目指すのか明確ではない。改革の方向、理念が提示されなければならない。また、野党である新進党があらゆる分野で改革を唱えても、連立与党につまみ食いされ、なし崩しに政策に取り込まれるだろう。
 五五年体制では、社会党が福祉や環境問題などで新機軸を打ち出したが、結局、革新自治体が全国を席巻した七○年代以降は、自民党が社会党の政策を取り込んで支持層を拡大し、長期政権を可能にした。
 現状では、新進党が第二の社会党になる懸念は十分あるのだ。社会党は、それでも、イデオロギーの対立を看板にして自民党との違いを鮮明にできたが、新進党は、そういう看板さえ持たない。明確な対立軸を持てないなら、社会党以上に厳しい状況になるかも知れない。
 では、どのような対立軸がありうるだろうか。
 一政治家として考えた場合、私は、基本的には二つの軸を考えたい。一つは、将来世代重視の政治である。
 たとえば、当面の景気が悪いからといって、安易に赤字国債を発行して公共投資を増やし、財政赤字を将来世代に尻拭いさせるという政策は、現在世代の人々にとってはよくても、将来世代にとっては不都合である。環境問題にしても、当面の利益を優先して環境を汚染し続ければ、そのツケを将来世代が払うことになる。
 このように、政策の選択においては、つねに、現在の利益を優先するか将来の利益を優先するか、の判断を迫られる。そして、現在の利益を優先すれば、必ずや将来に禍根を残し、将来の利益を優先すれば、当面の我慢を強いられる。
 私は、二十五歳で国会に送られ、いまだに国会議員の中では若手の部類にはいる。そういう意味では、若者の利益、将来世代の利益を代弁する義務があると思っている。
 しかし、それだけではない。この混乱の時代こそ、時間的にも空間的にも視界を広くとり、目先の利益ではなく、十年後、二十年後の国の姿を見据えつつ現状を改革する必要があると思うのだ。そういう意味では、将来世代重視の政治は、時代の要求でもある。
 もう一つは、国民を主人公とする政治である。
 私はこれまで、自分の政治姿勢について「新保守+リベラル」という表現をしてきた。基本は新保守でも、弱者救済も真剣に考える、という意味をこめてこう表現したのである。
 しかし、考えてみるとリベラルとか保守という手垢のついた概念を使うのは誤解を招く。標語やレッテルは手軽に分類できて便利ではあるものの、人々の思考を鈍らせ、かえって真実から遠ざかる。
 クリントン米大統領が大統領選挙出馬の折りに演説しているように、私たちが今、起こさなければならない変化は、保守的でもリベラルでもない。そのどちらでもあり、どちらでもないのである。市井に生活する人々は、保守でもリベラルでも、あるいは「右」でも「左」でも、それはどちらでもよい。そういう空疎な言葉には関心はないのである。失業者が求めるのは職であり、家庭の主婦が求めるのは安くて安全な商品であり、サラリーマンが求めるのは通勤地獄からの解放である。
 それに応えるには、極めて当たり前のことながら、「人民の人民による人民のための政治」という真の民主主義を確立することではないだろうか。金持ちや資産家のたの政治、企業家のための政治、農民のための政治、労働組合のための政治ということではなく、国民のための政治である。
 国民とは、モノやサービスを生産し、税金を支払い、そして消費する、トータルとしての個人個人のことである。ある時は金持ちになり、あるいは貧困のどん底を経験するかも知れない。今は健康でもいつ身体的弱者になるかも知れない。彼らは、いずれは必ず老人になる。そしてある人々は、寝たきりや痴呆になるだろう。そういう、トータルとしての国民のための政治でなければらない。
 そういう政治を国民自身の手によって行う、それを私は考えている。

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