第一部 政治を変える 第一章 国民を主人公とする政あなたはどちらを選ぶのか 具体的にはどういう政治であろうか。 基本的には、個人個人の自由を最大限に尊重する政治である。 したがって、明治以来、わが国で続いてきた官主導の政治を改め、民主導の政治にする。官主導の 政治は、国民を管理することを基本としている。このために、国民の自由は拘束され、自由で創造的 な生活が阻害される。国民は決められたレールを決められたスケジュールで走り抜けるよう仕向けら れ、その枠からはずれると、半永久的に落伍者としての人生を送るしかないのである。 しかも、その管理の網の目は、教育、家庭生活から経済活動にいたるまで、国民の活動の全域にわ たっている。このため、人々は、豊かなモノに囲まれるようになっても、閉塞状況に追い込まれ、名 状しがたい不満を募らせている。 その管理の鉄鎖から国民を解放することが、私の目指す政治の基本である。 ひるがえって、現在の村山内閣を支える勢力はどういう性格のものであろうか。 北岡伸一立教大学教授が『中央公論』(九四年○月号)に書いているように、村山内閣を政策の面 からみると、軍事や安全保障面での国際貢献、行政改革や規制緩和、地方分権の推進、税制改革など に対しては極めて消極姿勢である。 たとえば、軍事・安全保障の側面における国際貢献では、武村、河野、村山三氏はそろって消極派 だ。河野氏は国連常任理事国入りやPKOについて、ガリ事務総長が九三年二月に来日したときなど、 消極的発言を繰り返していた。武村氏も、非軍事的国際貢献以外には極めて否定的だ。 行政改革・規制緩和については、一応姿勢だけは示している。だが、戦略的な着手がなされている とはいえない。さらに地方分権についても、知事経験者の武村氏ですら意外に提案が少ないのである。 税制についても、大幅な改革を主張する人は自民党にもいるが、村山政権の中枢には真剣な取り組み はみられない。 一言でいえば、村山政権は現状維持派の政権といえる。 もちろん、現状維持派がいつもいけないというのではない。それは時と場合による。私は五五年体 制が残した成果については高く評価するものであり、その基底となっていた、官主導の日本型システ ムを頭から否定するのではない。しかし、今や私たちはこのシステムを変えていかなければならない。 なぜ日本にまともな国際空港が一つもないのか。なぜ日本には世界と競争できる大学がほとんどな いのか。情報産業、情報インフラも甚だ立ち遅れているのではないだろうか。これで二十一世紀に世 界と競争していけるのだろうか。 なぜこれほど酷い通勤ラッシュに絶えなければならないのか。なぜ住宅がこんなにお粗末なのか。 なぜ日本に美しい町並み、美しい田舎がほとんどないのか。なぜ、女子学生は就職難に嘆き、会社に 入っても男性中心の世界の壁に突き当たり、さらに結婚・出産によって次の壁にぶつかっているのか。 そして、なぜ豊かなモノに囲まれながら、いま一つ充足感に乏しいのか。 私は、官主導の日本型システムを変えなければ、この問題は解決できないと思う。したがって、こ のシステムを基本的に廃止するか維持するか、そこに政治の対立軸がある。 すなわち、飯尾潤埼玉大学助教授が『○○○○』(○○年○月号)に書いているように、個人主義 的改革か、日本型システムの継続かという極めて重要な対立軸が存在するわけである。 たとえば、規制緩和といえば誰でも一応は賛成する。しかし、規制緩和は政府の社会への介入を削 減することによって市場経済の強化を目指す政策である。ところが、戦後日本の経済体制は、政府の 役割を重視して市場経済を修正し、政府と民間との密接な連携を基盤に大きな成果をあげてきた。 その政策によって、存続できた産業部門は少なくないのである。 したがって、そうした分野で職を得ている人々は、おいそれと規制緩和が望ましいとは言えないだ ろう。また、直接の受益者にかぎらず、市場競争のマイナス面を重視する立場からすれば、時代が変 化してもそれを廃止するのではなく、作り替えて存続させるという選択肢もあるはずだ。 ここから、日本型システムの維持あるいは発展を目指す立場が出てくる。
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