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第三部 外交を変える

第九章 外交の五五年体制を超えよ

問題はアメリカ任せの外交


  これが、五五年体制の大きな特色だった。これは、国民にとって選択の余地がない、という点で不幸な政治であった。
  また、この間の真剣な競争の欠如が、自社両党にとって不幸な結果をもたらした。
  とくに社会党は、政権を担うつもりがないので、外交や安全保障や基本的な経済政策における非現実的な政策を転換する必要もなく、これに手をつけなかった結果、現実とのギャップはどんどん拡大していった。社会党の最初の惨敗は一九六九年の沖縄選挙であって、九十議席まで落ち込んだ。その後、抵抗の本領を発揮して、自民党が失点を重ねるたびに盛り返しているが、八六年の衆参同日選挙では八十五、九三年にはとうとう七十にまで低落したのである。
  しかも、冷戦の終結は、社会党の抵抗の拠り所である護憲・平和主義にも深刻な影響を与えはじめた。社会党はPKO法案に反対し、徹底した牛歩と議員総辞職という極端な戦術で反対した。世界の中における日本の比重が増大し、PKOが平和維持のために有効であることが世界で認められているにかかわらず、これに徹底して反対したのである。
  結局、この方針は国民の支持も得ることができず、九二年の参議院選挙では社会党は二十二議席となり、同日選挙で大敗した八六年と同じ数であった。リクルートや消費税で大勝した八九年と比べれば二十四議席の減少である。
  この間、アジア諸国の反応も大きく変化しつつあった。リー・クアン・ユー・シンガポール元首相は、一九九○年日本が掃海艇を派遣したとき、これをアル中患者にウィスキー・ボンボンを与えるようなものだと、日本の軍国主義の復活を警戒する発言をしていた。しかし、その後、リー氏の発言は大きく変化し、その他の東南アジアのリーダーたちも、日本の積極的な役割に対する警戒を捨て、歓迎する方向に大きく変わった。
  社会党の旗印は護憲である。具体的には、憲法九条二項の戦力不保持を厳格に解釈することであった。しかしそれは平和の追求と同じではない。たしかに非軍事に徹すれば、日本が戦争をしかけることはないだろう。しかし日本は自ら戦争をしないというだけでなく、もう一歩進めた役割を果たすべきである。
  国際的な安全保障システムがつくられつつある時、いっさいの軍事力を否定することは、世界の平和維持に協力しないことである。
  非軍事=平和主義という意味での護憲の時代は終わったのであり、護憲・抵抗の政党としての社会党も終わったのだ。
  他方、その社会党の衰退によって自民党政治も、空洞化した。
  政治の基本は競争であるから、挑戦者が弱体なら、自民党政権は安泰である。そして自民党内部での競争だけが問題となる。その結果、六○年代になると政治の焦点は派閥と派閥の対立にうつり、八○年以降は、派閥は激しい競争を避けるためにある種のカルテルをつくるようになった。
  そこから生じた問題は、まず、政治の争点がますます見えにくくなり、国民は選択の機会を持てなくなった。さらに、派閥の求心力が弱まって、金権政治と二重権力の問題が出てきた。
  リクルート事件にすべての実力者が関係したように、有力でダーティな政治家と、クリーンで無力な政治家ばかりになった。政治は結果責任であるので、無力でクリーンな政治家よりダーティでも有力な人物のほうがましである。しかし、大衆民主主義のなかで、それは国民の支持を得られない。こうして、竹下政権が倒れたあとは、二重権力が続いてきたのである。
  私が、この問題をとくに憂えるのは、外交におけるリーダーシップが、日本の地位と責任にまったく見合わないものになってしまったということだ。
  外交には長い経験を持つはずの宮沢首相の政権の時代も例外ではなかった。
  九二年六月、日本でPKO法案が成立したころ、国連のガリ事務総長は、国連の平和維持活動についてレポートをまとめた。これに対して当時の宮沢首相は、ただちに、「ちょっと野心的な提案であるが、実現の可能性は乏しいと思う」とコメントした。また、九三年二月、私も関係していた自民党の小沢調査会報告書が、憲法の改正なしでも完全に国連の指揮下に入るならば、自衛隊が国連軍に参加することは可能だとしたのに対して、「国連軍というものがどんなものか、まだ作られていない。国連憲章のどれに基づくものなのか、各国とも話し合ってみなければわからない」と述べた。
  また、首相側近だった河野官房長官(当時)は、ガリ提案について、国際貢献を軍事的貢献だけに絞って議論をし過ぎていないか、と批判している。日本は非軍事面ではかなりの実績があるにもかかわらず、軍事面では他国に後れをとっているため、軍事面での貢献が盛んに言われるだけのことであって、この批判も取り違えた議論である。
  以上を通じて共通するのは、世界が抱える問題に対して何ができるかを前向きに検討し提案するのではなく、もし他国が用意してくれれば、欠点がないかを検討するにやぶさかでない、という姿勢である。
  こういうやり方は、結局、日本のためにならない。
  一見して明らかなように、これは五五年体制における、社会党の姿勢によく似ている。よく言われるように、日本はアメリカが大枠を決めてくれるのに慣れてしまっているのである。政権を担う意志も気力もない社会党が、抵抗政党と称して自民党が敷いた路線に口先では反対しながら追随してきたのと同じことだ。
  外交における五五年体制といえる。
  アメリカのある高官は、かつて、今後の世界においては、軍事力や経済力以外に、いわゆるソフト・パワーが重要になると指摘したが、その中心は、問題解決に向けての議題設定能力、解決方法を提示する能力である。それこそが、日本がもっとも立ち遅れた点であり、クリーンなだけが取り柄の無力な政治家がトップに立っていては、とうてい望めないことなのである。
  村山政権に至って、それが極まったといえよう。それを象徴するのが、冒頭にふれた国会決議である。このままでは、ますます日本は国際社会で孤立するだろう。

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