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第二部 経済・社会を変える

第四章 「国家総動員体制」からの脱却

戦後も「国家総動員体制」が続いた


  ところで、終戦によってこの体制は解体されたはずである。それがなぜ現在まで残っているのだろうか。
  アメリカの対日占領政策はドイツのように直接軍政という形はとらず、日本の行政機構を利用するという間接統治を採用した。このため、経済官庁はほぼ戦前の状態で残った。通産省や大蔵省は戦時の立法をほぼ継承して、戦後復興にあたった。
  GHQによって解散させられた統制会も、産業別の団体に改組され、生産割当、資材の割当などにおいて政府を補助する役割を果たした。鉄鋼と石炭生産の生産拡大のための傾斜生産方式は、戦時統制システムのミニチュア版であった。
  さらに、戦後の廃虚を乗り越え、アメリカやヨーロッパに追いつき、追い越そうとする段階になっても、経済官庁による統制、競争の制限は極めて大きな成果を挙げた。敗戦国日本と欧米との間にあった技術ギャップを克服たるため、政府主導で先進国の技術を導入し、それを利用して企業が生産量を増やし、コストを低下するというサイクルが生まれた。
  こうした環境の下では、企業は市場シェアの拡大によって利益の増大をはかれる。このため、設備投資の拡大競争が生じた。そこで、企業の参入・退出に対する規制や、設備投資の調整が正当化されたのである。
  ここにおいても、戦時期に形成された官民関係が大きな役割を果たした。たとえば、鉄鋼業の合理化計画は、各社が自主的に策定したという体裁をとってはいたが、実際には、通産省の方針が鉄鋼連盟を通じて各社に伝えられ、その方針に従って各社が計画を策定したのである。これは、戦時統制経済の計画プロセスを踏襲したものであった。
  金融面でも、戦時の統制的な金融制度がほぼ温存された。たとえば、外為法は、三七年の資金逃避防止法を引き継いだもので、いわば金融鎖国を行うための措置である。このため、資金不足にもかかわらず低金利が維持された。物価の上昇率よりも低い金利で貸し出したのである。
  このため、どの企業でも借りたくなるのは当然だ。
  そこで政府は、行政指導によって重点産業に資金を手厚く配分したのである。その中心的な役割を果たしたのが、日本興業銀行や日本開発銀行などの政府系金融機関である。これらの銀行は、戦後復興と高度成長に大きな役割を果たした。
  一方、産業界は、財閥解体による株式民主化の動きはあったものの、証券市場の発達が抑えられた。すなわち、資本自由化に備えるという名目で、企業間で株式持ちあいが行われ、さらに、戦前と同じく、社債の発行が規制されたのである。このため、企業は相変わらず銀行借り入れに頼らざるを得なかった。
  このように証券市場を発達させなかったことが、メーンバンクの企業に対する影響力を大きくし、同時に行政指導を通じる資金配分によって日本経済のコントロールを可能にしたのである。

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