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第一部 政治を変える

第三章 しなやかでタフな社会の構築

考えさせる教育が必要

  日本の教育でもっとも問題なのは、親も子供もゆとりがないことだ。学校の週五日制が始まっているが、教える量は減っていないので、平日の授業量はかえって増える。また一方で、遠足、文化祭、学芸会という行事を減らしている学校もある。つまり、子供達が楽しみにしている行事を削って、授業時間の帳尻を合わせているのである。
  こんなバカなことをやっていたら、子供の感性を殺すようなものだ。
  教育問題といえば、入試制度の問題といわれるほど受験競争が深刻な問題になっている。このため、入試制度はこれまで何度となく変えられた。しかし、どうしても悪平等主義から抜けられず、平均的優等生しか合格できないシステムは変わらない。その点からいえば、大学入試センター試験は大幅に見直すべきだ。これでは、センター試験を受ける勉強と大学独自の二次試験のための勉強をしなければならず、受験生には二重の負担がかかる。しかも、ますます一芸に秀でた受験生は締め出されてしまう。
  各大学が独自の試験を実施すると、かつてのように難問・奇問で受験生を落とすところが出てくるという危惧があるようだが、心配はいらない。そういう大学は社会が許さないので、十分、歯止めになるだろう。現在は少子社会である。一部の有名大学以外は入試に個性を反映して学生を集め、生き残り策を必死で考えるだろう。入試制度はもっと多様化されてよい。
  学校教育のもう一つの問題点は、教師が生徒の管理に追われていることだ。特に公立の小中学校の管理は驚くほど厳しく細かい。これが教師にも生徒に大きな負担になっている。教師は、生徒一人ひとりに気を配るどころか、管理のための雑用に追われるばかりなのである。これでは、教師にも生徒にもストレスがたまり、いじめや体罰の温床になることもあるだろう。
  学校管理の方法を抜本的に変えるか、教師を増やすべきだ。一クラスに複数の教師を配置してグループ別に教えるティーム・ティーチング制を本格的に導入するとか、一クラスの生徒数を実質的に二十人台にするなどの改善が必要だ。
  とはいえ、教育には生徒一人ひとりに読み書きを教える個人教育の側面と、社会性を身につけさせる集団教育の側面がある。集団の中でそれぞれ役割を担い、力を合わせることを学ぶことは教育の重要な側面なのである。したがって、一クラスの定員にも自ずから適正規模がある。あまり減らし過ぎると集団教育の側面が失われるからだ。
  教育内容に関しても抜本的に改革すべきである。初等教育段階での学科の教育に関しては、私は、読み書き計算を中心とする基礎教育で十分だと思っている。現在は、知識を詰め込み過ぎている。このため、呑み込みの遅い生徒は置き去りにされ、基礎的な知識さえ満足に身につけられない。それでも、義務教育ということで、とにかく所定の年限を在籍させ、本人の学力など無関係に卒業させられている。
  こういう生徒にとって学校が面白いはずがない。
  ところが、現在の教育政策は、教えるべき知識の量をさらに増やしている。これでは、ますます落ちこぼれの生徒が増えるはずである。この点は早急に改める必要がある。
  落ちこぼれない生徒は、詰め込まれた知識によってより有為な人材に成長するのかというと、そうではない。確かに彼らは、答が一つに決まっている問題については素早く解答できる。ところが、決まった答のない問題については全く無能力ぶりを示す。
  なぜなら、彼らは幼少の頃から、自分の頭で考える訓練を受けていないからだ。ただ反射的に自分の知識のストックを走査して要領よくまとめ、解答しているに過ぎない。
  この能力は、明治以来からの、欧米に追いつき追い越せの時代には威力を発揮した。しかし、現在はそういう時代ではない。日本も独創的なアイディアや発見によって、科学技術や学問の分野で世界に貢献しなければならないのである。そのためには、子どもの頃から、自分の頭でものを考え創造する習慣をつけ、その能力を磨かなければならない。
  そういう意味でも、学科教育は本当の基礎的部分に限定し、もっと自分で考える訓練を行うべきである。
  すなわち、ものを教えるという発想から、考える力を付けるという発想に転換すべきであり、また、生徒を管理するという発想から、自分で判断する力を養うという発想に変えることが必要である。

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