第一部 政治を変える 第三章 しなやかでタフな社会の構築 エリート教育を国立大学院大学で もちろん、生徒が社会人として常識を持って送れるような生活指導は必要であろう。しかしながら、たとえば男子生徒全員を丸刈りにするなど、生徒全員を一律に管理するやり方がそういう教育といえるだろうか。学校が生徒を統率するための手段に過ぎない。 社会性の教育とは、むしろ、人を傷つけたらどんなに痛いか、こういう言葉を使えば相手はどう思うかといった、人間が生きていく上での知恵を教え込むことであろう。それも教室の中だけではなく、たとえば老人クラブを訪問させたり、ボランティア活動をさせるなど、現実の社会で実体験をさせるなら、さらに効果がある。 高等教育も抜本的な改革が必要である。 これまでの大学は、欧米の学問を輸入解説し、横文字を翻訳することを主たる仕事にしてきた。そのために外国語が重視され、大学院生は英語のほかにドイツ語やフランス語の習得が必修とされている大学が多い。このような外国語偏重は、明治の輸入学問時代の遺物というべきで、大学がこういう状態なので、詰め込み教育の優等生が大学に優先的に入れる、という現在の選抜システムが続いているのである。 私は、高等教育は思い切ってエリート教育をするべきだと思う。それぞれの分野に秀でた専門家やリーダーを育成するのである。 このために大学を改革して、国立大学の学部はすべて民営化して私立とし、国立は大学院大学に限定する。そして、ここでエリート教育をすればよい。厳しい試験によって、学問的な能力のほか人格、識見ともに優れたバランスのとれたノーブレス・オブリジェ意識を持つ人間を選抜し、育成するのである。 エリート教育といえば、飛び級制が話題にされるが、私は、初等教育からの飛び級は反対である。こんなに早くから特別教育をすれば、いずれ潰れてしまう。飛び級制は高校からで十分だ。 現行の六・三・三制を旧制中学のように中高一貫教育にするべきだという意見がある。しかし、現在の問題はこのような制度の問題ではなく、教育内容の問題である。中高一貫教育にしても、現在のような選抜方式や教育内容では、根本的な改革にはならない。 仕組み(ハード)ではなく、中身(ソフト)の問題なのである。臨教審は、仕組みにこだわったため失敗した。 また大学は、高度なプロフェッショナルのための生涯学習機会を提供するようになって欲しいものである。職業人として経験を積む途中で大学院に入ってさらに専門的能力を高める、あるいは、大学学部に入りなおして別の専門能力を身につける。このような機会が整備されなければ、高度な産業社会における人的投資は進まない。 そのためには、社会人が能力アップに使えるだけの機能を、大学でも常に備えていなければならない。
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