〜「戦略的パートナー」から「戦略的競争相手」へ〜
ところが2000年の大統領選挙では、息子さんのジョージブッシュはクリントンに対する仕返しみたいな形で、クリントン、ゴアの外交政策を全面的に批判して、対照的な政策をとるということを選挙戦で何回も言っていました。例えば、クリントン・ゴア政権では、国際外交上では、はっきりとした優先順位を出さないで、社会福祉的な外交政策しかとってなかったというような批判をしました。そしてまた、中国に対する政策では、クリントン・ゴア政権は意味不明な「戦略的パートナーシップ」をつくるというような政策をとったが、ジョージ.W.ブッシュは、中国は戦略的パートナーでなく「戦略的競争相手」だと強調しておりました。そして、対日政策についてもクリントン・ゴア政権は非常に日本を軽視して、中国に行く時日本に立ち寄らないで、中国に滞在する時日本を批判した。それは、同盟国である日本に対して非常に失礼な態度をとったと、よく選挙戦で批判しておりました。
〜ブッシュの対アジア政策〜
またジョージ.W.ブッシュが選挙戦の時に、いろいろと外交政策のポイントを強調していたのですが、東アジアの外交政策では、4つの点をいつでも強調しておりました。1つは、米国にとっては、日本をアジアにおける最重要国であるということ。第2は、中国は「戦略的パートナー」よりも「戦略的競争相手」ということ。第3は、台湾の国益をもっと積極的に守る。最後に、北朝鮮に対して、もっと断固とした態度をとる。まずこの4点を、ジョージ.W.ブッシュは選挙戦の時に挙げました。
〜クリントン政権の対中政策の変化〜
しかし、この大統領選の熱が冷めた時に、そして、大統領に就任された後、いろいろな国際政治の現実にぶつかると、新任された大統領の主張がかなり柔らかくなる傾向があります。ですから、選挙戦の時は非常に強硬な発言をするのですが、大統領になってからはかなり政策が緩やかな政策になって、選挙戦とはかなり違った政策を実践するようになります。クリントン政権の行方を振り返ってみますと、選挙戦の時の発言と大統領になってからの政策ではかなりギャップが感じられます。例えば、選挙戦の時には人権と貿易を結びつけて、中国の人権や民主化を進めるために圧力を与えると言っていました。しかし、大統領になってから2年間その政策を続けていましたが、全然進歩がなくて失敗に終わりました。その後、人権と貿易を切り離して、中国に対しては、責めという政策よりも協調的な、寛容政策を押し進めるようになりました。
〜クリントン政権の対日政策の変化〜
対日政策でも、同じようなU-turn(逆転)をみられると思います。最初はご存知のように、クリントン政権は日本に対して、強硬に結果重視の通商政策を実際にしておりました。日本は、これは数値目標を導入する管理貿易的な政策だと激しく批判しました。当時、細川総理がアメリカに行った時に、アメリカの結果重視政策に対してはっきりと「NO」と言いました。そういう経験で、徐々にクリントン政権は対日政策では、わりと緩やかな、規制緩和とか市場開放化の政策に転換するようになりました。安全保障面でも同じようなU-turnがみられます。最初は、クリントン政権では、日米安全保障体制をそんなに重要に扱ってなかったのです。同盟が必要でないということはなかったのですが、今のままでいいと言って、あまり重視しなかったのです。しかし、2,3年経ったら、北朝鮮の核疑惑によって、アジアでも軍事的な衝突も起こるという危険性の中で、今のままの安保体制だったら充分に対応できないと自覚して、橋本総理と一緒に安全保障宣言を1996年にしました。その後、1997年に日米防衛協力のガイドラインを見直して、もっと積極的に日本がアメリカの作戦に支援をしなくてはならない、そういう政策に転換しました。その時、船田先生もアメリカに何回も来て、当時私はブルックリン研究所にいましたが、船田先生との意見交換も非常に貴重な経験でございました。