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生きた政治学ノートU
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―本稿は作新学院大学経営学部「経営学特殊講義U」において、平成13年度と14年度の後期に講義した内容をもとに、編集し直したものである。またCoffee Breakは、講義の合間に学生諸君に行なった雑談から抜粋したものである。―

船田 はじめ

1.政治改革とその限界について

(1)『平成5年革命』までの経緯について

竹下派・経世会(いまの橋本派)の派内抗争から、派閥分裂まで―

 「政治改革」の実現を目指した平成5年6月の『平成5年革命』は、昭和30年に誕生した自由民主党を、38年間君臨し続けてきた政権の座から、初めて引き下ろしたという、政治史上まさに画期的な出来事である。

*戦後の日本を発展させてきた自民党が、一時期ではあっても政権から脱落したことは、通常の政権交代以上の意味があるということで、筆者はあえて「革命」と表現している。

 この革命はそもそも、自民党の最大派閥・経世会(竹下派)の内部抗争と分裂に端を発している。平成4年夏、同派会長の金丸信代議士の佐川急便事件への関与が発覚し、自民党副総裁と派閥会長を辞任、さらには議員辞職に至った。これに対する同派会長代行の小沢一郎代議士らの対応に、派内からの批判が集中した。その急先鋒は野中広務前自民党幹事長らのベテラン議員であった。
 平成4年10月、後継会長を選出するための幹部会(常任幹事会)が開かれた。内部では小渕恵三代議士を推す竹下登、橋本龍太郎、綿貫民輔の各代議士や参議院経世会(会長・坂野重信)などの勢力と、羽田孜代議士を推す小沢一郎、渡部恒三、奥田敬和、佐藤守良(事務総長)各代議士らの勢力がにらみ合う形となった。

*筆者は当時、同派事務局長として同会議に出席し、会議録を作成するとともに、事務総長の記者会見での読み上げ原稿を作成する役割を担当していた。筆者の政治生活の中でも、最も生臭い強烈な場面であった。

 この会議は延々一週間続いたが結論が出ず、とうとう業を煮やした座長役の原田憲代議士が「この際、小渕氏が会長としてふさわしい」との見切り発言を行い、会議は決裂した。 

「改革フォーラム21」の誕生とその限界―

 その後竹下派は小渕恵三氏を会長とする新たな経世会と、羽田孜・小沢一郎氏を中心とする羽田・小沢グループに分裂。平成4年12月には同グループが「改革フォーラム21」として、若手を中心とした36名の議員でスタートした。

*筆者は「改革フォーラム21」のスタートと同時期に改造された宮沢内閣で、国務大臣・経済企画庁長官に任命された。最年少の39歳1ヶ月での大臣就任であった一方、予想された大臣候補とは違って突然指名を受けたため、グループに動揺を与えるための「一本釣り」人事か?などと騒がれた。

 豪腕と称されていた小沢一郎氏が舵取りをする「改革フォーラム21」に対しては、自民党内の風当たりは相当強かった。また同グループが小選挙区制度の導入を目指す政治改革を、もっとも熱心に進めていたため、一層警戒される存在になっていった。

内閣不信任決議案の可決と「新生党」の誕生―

 平成5年5月に放送された民放番組「総理と語る」において、宮澤総理は司会役の田原総一朗氏の執拗な問いかけに対して、「この国会で政治改革を必ずやります。」と明言した。しかし通常国会終盤に至っても一向に政治改革に手をつける様子がなかったため、反発した「改革フォーラム21」のメンバーは、国会最終日に野党から提出された内閣不信任案決議案に、全員賛成した。また同様に改革を叫び続けてきた自民党若手議員11人も、同調した。この結果、同決議案は平成5年6月18日賛成多数で可決され、宮澤総理は直ちに衆議院を解散した。
 「改革フォーラム21」の36名は直ちに自民党を離党して、「新生党」を結成、羽田孜氏を党首に、小沢一郎氏を幹事長に選出した。また若手11名は「新党・さきがけ」を結成して、武村正義氏を代表に選出した。
 同年7月18日に投票された衆議院選挙の結果は、新生党やさきがけを含めた野党に世論が傾き、自民党を少数に追い込むこととなった。選挙後の特別国会を前に、共産党を除く野党各会派は自民党から政権を奪取することを目標に、連立政権構想に積極的に参画した。その中でも選挙によって一番躍進した日本新党の細川護煕党首を連立政権の首班に推す動きが急加速し、同年8月6日、一気に細川内閣の誕生となった

*細川連立政権に加わった政党・会派は新生党、新党さきがけ、日本新党、社民党、民社党、公明党、民主改革連合(参議院)、新緑風会(参議院)である。

*特別国会を前にした連立政権構想の中では、羽田孜新生党党首が候補者として最有力であった。ところが小沢幹事長やその周辺は、最初から自民党離党組がトップに立つと、社民党などの中道・左派勢力が警戒感を抱き、そのため連立が立ち上がらないか、極めて短命になる危険性を懸念して、あえて未知数の細川氏を選んだ経緯がある。

*国会直前の野党各党の幹事長・書記長を集めたテレビ討論会で、小沢幹事長の代理で出席した筆者は、出席者の多くが「羽田氏が最有力」と口を揃えた中で、「それ以外の選択肢もある。」と発言して、注目を集めたことがある。

『平成5年革命』の意義―

 平成5年革命は、表面上は政治改革の実現を目指した政治上の重大事件である。実際に、平成6年1月には難産の末、小選挙区導入を中心とした政治改革関連法案が、細川総理と河野洋平・自民党総裁の間で合意し、成立している。しかし底流には自民党の最大派閥であった経世会の内部抗争と、それに続く自民党分裂に端を発する政治事件でもあり、自民党内の派閥抗争の延長線上にあった事件だったとも受けとめられる。

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